CIEL THERAPY 
 シ エ ル セ ラ ピ ー ウ ェ ブ サ イ ト  

DIARY

11.10
プロフィールのページを更新しました。
好きなもの、苦手なもの欄を作りました(^−^)
意外とみなさん、実は私のことを知らないので(うふふ☆)掲載してみました。

10.20
困った時、悩んだ時、悲しい時、「どうしよう?」と思った時。
エンジェルヒーラーなら天使に尋ね、
シエルセラピストなら神に相談し、
シータヒーラーなら創造主と会話する。
または複数であるなら、そのどれかや複数に尋ねたり相談したり会話する。
それが「練習」であり「お金を大切にすること(未来お金持ちになる方法)」でもあり「自分を大切にすること」です。
つまりは「自分を愛すること」です。

相談した後、どうしたいか。それを自分にも尋ねてあげる。
どう生きていきたいか。そのために今すぐできるほんの小さなことやアクションは何ができるか。
思うだけで行動しないのなら愛ではない。すぐにする。ほんの小さな今すぐできることに今この瞬間取りかかる。決して明日にしない。1時間後にもしない。「今」は今であり、今とは「現実」。
現実とは「自分」だから。

相談できる存在が自分にはいるのに相談せず、これまでどおり今までどおり自分一人で、孤独に、不安と恐れ、心配に基づいて思うだけだったり、行動したり。
それでは「愛」という何億、何兆ものお金をゴミ箱や「ドブ」に捨てていることと全く同じ。
自らの「愛を持とうとしない心」が、ご自身を不幸にしている。ただそれだけのこと。
そんな何億も何兆ものお金を捨てるような非情な人が愛されるはずもないし、お金持ちになるわけもないし、不幸にしかなれないのは当然。 みなが一生懸命に生き、稼ぎ、励む中で、「お金をドブに次々と捨てる人」のことを、反対の立場ならあなたはとても優しい目でにこにこと親しみを感じながら尊敬し、愛せるだろうか?
腹が立ったり、悲しくなったり「なんでそんなことするの?」と理解できなかったり「ひどいよ」と思ったりしないだろうか?
そう。だから。幸せではない。それだけ。
他人も、環境も、状況も関係ない。いつも「自分」。

自分に愛を。

まずは、自分。

これまでと変わりない「愛の心で自分を見てあげていない、接していない、思ってあげていない」部分があること(部分に気づかず放置してしまっている結果になっていること)が、出会う悲しみ、辛さ、理不尽さ、苦しみの正体だから。

10.9
シエルセラピー

質問・相談内容>
「スピリチュアルで言われるところの「ワクワクする」に対して、どうしても違和感がぬぐいきれません。
どうしたらいいでしょうか?」

神:
やぁ。質問をありがとう。
そうだね。
そこには「努力することなしに」が含まれているから、違和感を感じるのだろうね(^−^)

ワクワクすることも、ワクワク想像することも、楽しいことをすることも、楽しいことを追求することもいいこと。
けれど、それだけしていても、何も現実は変わらない。
ただ白昼、妄想、妄想ごっこしているだけだ。
それなら、3歳の子供がよくしていることだよね(^−^)
3歳の子供は、夢や希望のすべてを「すでに」手に入れているパーフェクトな存在ではない。
にもかかわらず、大の大人が3歳児の真似をして白昼夢にふける…
それはとても「非現実的」であるがゆえに、違和感を大いに感じることなのであろう。

スピリチュアルとは「バカになれ」と教え、伝えるものじゃない。
宗教でもない。
先人やあらゆる愛に基づいた魂からの知恵や勇気、アイデアを広めて伝えるものだ。
であるからして、現実に役立たないものはないと言える。
けれども人間には「欲」がある。その欲に反応して応えるものもあるということだね、限りなく「人間」が。
先人を含めた愛に基づく魂は「白昼夢のススメ」「非現実的なもののアドバイス」はしない。
そのようなものは、寝ている間に見る夢でしていればいいことだからだ。

「欲」には「欲」が反応する。呼応する。共鳴する。おびき寄せられ、だまされる。
夢と欲を混同することから、その結果が変わってくる。
夢なのか欲なのかは、その者の生きかた、心の在り方でよくわかる。
誰かをだまして生きているか。搾取しているか。
お金を儲けることは素晴らしいことだが、金、金、金の亡者になってはいないか。
そのことからよくわかる。
間違いを犯すことは人間ならよくあることだ。しかしながらそれを反省し、その後の人生に「善き行い」として還元、貢献、奉仕しているかはその者の有りかたにある。
人をだましながらワクワクしていても、その未来にあるのは破滅。それだけだ。

もしワクワクすることができるのなら、「努力」を自然としているであろう。
その夢を叶えるために、できること。それの。
3歳の子供が「お姫様になりたい」という夢のために、テーブルマナーや敬語を勉強し、身につける習慣を一日の大半ついやしているだろうか?
世界に通用するお姫様になるために、他言語を自ら身につけようと学んでいるだろうか。

オリンピックに出るアスリートでさえ、3歳の頃からみっちり練習してきた、という者のほうが多い。
それはオリンピックが「夢」だからだ。
白昼夢(妄想)ではないからだ。
「ただワクワクしてました。ワクワク想像してました。楽しいことをしてました。練習はまったくしませんでした。」というアスリートは1人でもいただろうか?

そのように言われないと「欲」と「夢」の違いが理解できない者もいる。
いるから「欲」を「夢」という言葉に置き換え、「怠ける」を「楽しい」に置き換える者がいる。

「楽しい」と「ラクをする(怠ける)」は同じではない。
ここで言う「ラクをする」とは、怠惰のことだ。決して「自分に対して厳しい者が、かつて親に「楽をするな!怠けるな!しっかりやれ!ちゃんとしろ!立派になれ!いい子になりなさい!●●ちゃんみたいになりなさい!あなた本当だめな子ね!」と 言われて育った方法と同じように、自分に対してダメ出しばかりをし、卑下し、自分を責めることをする」ではないということだ。

欲にまみれた者は「楽しい」「ワクワク」をはき違える。どれだけずるい方法で自分ばかりが「いい目にあう」や「利益を得られる」かの手段だと理解し、何も努力しない。
「夢」を持つ者は、誰かや何かのせいにすることなく、夢を叶えるために勉強をする。練習をする。日々、長い年月をかけて地道にコツコツと繰り返していく。その未来に夢を叶えた自分がいることをワクワクしながら想像して。
努力さえも楽しいと感じながら。

「欲」もいいものである。けれども、欲にまみれて自分を見失うことは現実を生きていないことだ。
いつまでも3歳の子供と同じである。夢は一切叶わない。
本当の「夢」を抱く者は、嫌がることなく「自分自身が克服する点」を見つめる。それはとても「痛い」。心の古傷がうずくからだ。
けれどもそれを見捨てたりはしない。もう自分を「愛さない」ことをやめて生きる覚悟や決心ができたからだ。
欲を「夢」とはき違えている者は、あらゆることに気づけない。
この文章も、どの文章も読もうとかえりみることなく、自分だけの利益を追求することをしてやまない、よだれをたらしながら、飢えた野良犬のように。

飢えた野良犬は平気でゴミ箱をあさる。腐敗したものも食らう。
欲が自分を苦しめ、破滅へ導いたことにも気づけずに。その欲を思いついた自らの心がすでに腐敗しきっていることも理解できずに。
平気で「おいしい目をみる」ことに夢中になる。
類は友を呼ぶ。腐った者には腐った未来と、あるのは破滅や破壊。それだけだ。

9.18
●疑う


天使と話せるようになりたくて、天使が見たくて、見られるような自分になりたくて。
講座を受けに行った自分が「わからない」「見えない」「話せない」と思ったことを、まず疑います。

「わからない」と思った時は「本当に私、わかってないのかなぁ?」
「見えない」と思った時「本当に私、見えてない?」
「話せない」と思った時「本当に私、話せてない?」

それ… 本当は…
「わかると思える自分になったら困るから、わからないと思い込んでいる私」
「見えるようになったら困るから、私なんかが見えるはずないじゃない、あんな素晴らしい天使なんて、この私が」
「話せるようになったら困るから、話せないと思い込んでいる私」

これが真実だからです。

「エンジェルヒーラー認定コース」は、小学校でたとえましたら、小学一年生が学ぶ内容です。
あいうえおの書きかたを先生から学びました。
1たす2は、3。それを先生から学びました。
それを、小学校1年生である子供ではなく、大人である生徒さんが。
理解力も知識も、子供ではなく。現在の年齢である大人の皆さんが、です。

本当は楽しい内容です。
ディズニーランドのようにウキウキする内容です。

なぜなら、大人が学ぶから。

わからないと思うことには意味があります。
できないと思うのなら、意味があります。

まずは、自分の「わからない」「できない」を疑う。

その「わからない」「できない」と思っている考え。それが、そもそも間違っているから。
違っているから。

あなたは6歳ではない。
たくさんの悲しい日、辛い日、苦しい日、泣いた日、怒った日、怒られた日、しかられた日、イライラした日、 落ち込んだ日、情けなさを感じた日、理不尽だと思った日、苦手だと感じた日、困った日、どうしたらいいかわからなかった日…
それらを過ごしてきた、人生を自分なりに過ごしてきた、頑張ってきた人だから。

条件付きの人生の中で生きてきた私たちです。
それを、まっさらの状態に戻って愛だけの中で愛や天使と交流し、愛に溢れた自分や人生や幸せや、家族や周りの人たちとともに生きていく人生を「作っていく」。
それが天使と話すこと、見ること、わかること、理解すること。

何も難しいことも、できないことも、わからないこともなく。ただあるのは、愛。それだけ。

けれども私たちは条件付きの中で生きてきたがために、条件が何もないまっさらな清らかな愛だけ、が初体験、初経験に近いんです。
(^−^)
それで。
慣れていくために、講座で教えてもらったことをお家でも繰り返していく…

これが。
「わからない私」が幻想だったと知る方法、「できない」と思ったことが幻想だったと理解できるようになる方法です。

それはお家で、ノートを広げて「あああああああああ」と何回も書いて練習することと、同じ。
あを練習した分だけ、「あ」が上手になりましたね(^−^)

講座で「あいうえお」を習った。
書いてみた。
先生から「できてますよ(^−^)」と言われた。
でも、私は「わからない」と思った!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

(笑)

だから、お家で練習をした。


たったそれだけのこと。

それをしないから。しようとしないから。ノートに書かないから。「私はわからない」に変にこだわるから(笑)

だから、いつまで経っても「わからない」が結果として残っているだけ。

もしも授業中に先生から「できてますよ」と言われた時…
「わぁーい☆そうなんだ♪ 嬉しいな」と思ったかどうかはさておき、「自分を認めること」ができていたなら。


「わからない私」で生きている必要もなく、「見えない私」「話せない私」で生きている必要もなく。
「わかる私」で生きても、なんら支障も問題も困ることもなく、むしろ幸せに生きられるようになった喜びのほうを味わいながら生きる人生が 自分にはあるんだということが理解できるようになっています。

それが困るから。幸せがイヤだから。自分を認めたくないから。あるいは自分を認めるともっと悲惨なことになるという妄想が無意識にあるから。

「わからない」を選び、「見えない私」を肯定し、「話せない私」を受け入れ、認め、 これまでどおり自分や何かや誰かを敵かバイ菌か嫌な人扱いしながら、不幸な人生を送り続けます。

不幸。それがあなたにとって一番安心する生きかただから。


私は不幸に「うんざり」しました。
お金がない、心が苦しい、泣いてばかり、しんどい、孤独…

もういやだ。と思いました。


イヤなことがたくさん起こらないと理解できないくらい、私は自分を「ありのままに認める」ことができずに生きていました。
もしも私が、何もできなくても、体が弱くても、あれがほしいなこれがほしいなと感じてしまう自分に「そうだね(^−^)」と共感してあげられていたなら、 親は私を全否定したけれど私自身は私を受け入れてあげられていれば、いい娘やいい嫁になろうとさえしてなかったら、 頑張らなきゃいけないと思うことなく生きていたら、自分がただ息をしていてただ息を吐いているだけで生きていても「それでいい」と思ってあげられる本当の意味の優しさを持っていたなら。
私は神にも天使にも出会うことなく…
笑って生きているのだろうと思います。どんな時代、どんな瞬間の私でも。

そうではなかったから。
私は神に出会い、天使と話し、神や天使を理解することをとおして自分を知り、人を知り、どれくらい自分が自分を痛めつけてきたのかに気づき、 それがごくごく自然とおこなわれてきた自己虐待であったことを知り、いつ、どんな時も、今もなお、これからも、 神や天使と話しながら幸せを教えてもらいながら幸せが理解できる自分になりたいといつまでも初心を忘れることなく生きていきたいと日々繰り返し、努力しています。

それは昔、自分には何かをしていなければ価値がないからと自己卑下する生きかたをしてきた人生と同じ方法ではなく、 ただ私がそうしたいから、努力が楽しくて好きだから。そのような理由で。
幸せになるためにできることを、したい。自分にできる限りのことで。そんな努力。
「人の笑顔が好き。」
そんな私に、出会えた人の笑顔が見られる瞬間が訪れる時間や、幸せに生きてますとお手紙で教えていただける有難さに触れる人生もまた、私の幸せ。


私は、私の生きかたは「自分のため」にすることよりも「人のため」にすることのほうがとても簡単で、とても考えやすく、とてもすんなりとできる。という生きかたでした。
「自分のため」を考えたことがなく、したこともなく、未知なることだったから。
それくらい、私は自分のために生きたこともなく、動いたこともなく、思ったこともありませんでした。
自分のためにいい点数をテストで取ることもありませんでした。読書感想文や作文や国語のテストの解答欄でさえ、「自分のため」に書いたこともありませんでした。
それでたくさんの賞をもらい、絵でももらい、学校に何十年も飾られ、校舎の一部として現在も残っていましたり。
どんなに華々しい賞や経歴、出来事があろうと、何1つとして。「私のため」にしたことはありませんでした。

ですから「自分さえよければ」がわからないし、理解できません。「お給料のためにガマンする」もわからない。
何か辛いこと、苦しいこと、悲しいことがあれば「全部、私が悪い。私のせい。」
私だからダメなんだ。私はやっぱり生きていてはいけない人間なんだ。生きる価値がないからこんな状態になるんだ。

いつも責めるのも、自分。
いつも、誰か、人のため。そのために私は生きてきて、結果、苦しんできました。
それが私が生きてきた人生、送ってきた「自分なりの方法」でした。

それが私には簡単なこと。常に自分は価値がなくて自分は悪い。それにあてはめて物事を考えて「なるほどそうか」「あぁ!」と合点、納得できていました。

まさか、それが。
その、自分の捉えかたが「違っている(間違っている)」ことに気づくこともなく。

ですからもちろん、「疑い」もしませんでした。そもそもそのような自分の発想に疑うことすら、思いつかない。しない。

それが、出会えた生徒さんからの「わからない」だと思います(^−^)
かつての自分。いつかの自分。
自分を責めるか、人を責めるか、何かを責めるか、自己価値がないと思うか、実際とはかけ離れた巨大な自己価値があると誇大妄想するか…
そういった違いは人それぞれですが。
きっと基本は同じ。なぜなら私たちはみな、人間。
それだからです。(^−^)



O L D




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