CIEL THERAPY 
 シ エ ル セ ラ ピ ー ウ ェ ブ サ イ ト  

DIARY

9.11
追記です。

「低血糖症」という病気かどうかは、オーソモレキュラーを実施している内科医によって検査していただくことができます。
「セリアック病」かどうかも、一般的な内科にて検査することができます。

セリアック病かどうか検査し、数値によってセリアック病ではないと結果が出た場合。
「リーキーガット症候群」という病気です。

こちらを書き忘れていました。

糖質(または炭水化物)、お好きですよね。



原因は医学からの見解が参考になります。また、ヴァイアナスタイバルさんの著書にある「腸」に関連した病気の欄すべても同様です。

愛が大切だととても気づかされますね。

それでは。眠っている間に天使たちと話をしている際思い出しましたので起きました。 ですので追記いたしました。それでは再びおやすみなさい。

9.10
講座を受講しても…
●エンジェルオラクルカードを使わない
●チャネリングをしない
(上記2点はつまり、悩みを天使に相談しないという意味)
●「天使からメッセージをもらっても、わからない」
(本当に自分がメッセージを受け取っているのか疑う不信感や、またはメッセージの内容が理解できないという意味)
という人が、ごくたまにいます。

そのような人は「低血糖症」、または「セリアック病および低血糖症」である。と見ています。

ですからプロテインの摂取を勧めています。
また、乳酸菌(善玉菌)の摂取で腸内環境を改善、回復させることも勧めています。

私は医師ではありません。ですから診断を下すことはできません。
また、「低血糖症」も「セリアック病」も、ここ最近10年間の間にアメリカ医学界や医師会で勉強をした医師でないと知識がありません。
ですから私がかつて病気でした頃と同じように、検査をしても「異常なし」や「原因不明」、または別の病気名を付けられることと思います。

低血糖症をひとことで言うと、「楽しくて充実感を味わいながら生きてきた人生」を送ったことがなかった人です。
そしてセリアック病は「被害者意識」で生きてきた人です。

スピリチュアルな観点から詳しく知りたいかたは、ヴァイアナスタイバルさんの著書もご覧ください。現在も発刊されているのかどうかはわかりませんが。

生きていても充実感がなかったり、親からあれやれこれやれ、あれはダメこれはダメ、あの人(たとえば兄弟、友達)みたいになりなさい、見習いなさい、 これこれこういう人になりなさい、どうしてあなたはダメなの、等言われて育ったり、楽しいことや嬉しいことよりも学校の成績を重視されるような教育方法をされてきたり、 いじめを受けたことがあったり、人から嫌なことをされたり言われたことがあったなら。
「被害者意識」を持って生きてしまったとしても、それは当然なことではないでしょうか。

つらさから身を守るために、「わかってもらえない」「孤独」「愛されていない」と思うような(考えつくような)人間になったとしても当然だと思えます。
愛されるために頑張るようになったり、理解者や愛してくれる人がいない人生やひとりぼっちで生きていっても「生きていける」ように工夫したり、頑張ったり、 毎日を過ごせるように努力したり、考えないようにしたり、諦めたりしたとしても、当然ではないでしょうか。
場合によっては誰かや周りや社会や世界を「敵」と見立てて生きても、自然なことではないでしょうか。

けれどもそれは、すべて「傷」です。

子供の頃に意図せずついた傷。

それが癒えず、完治せず、膿を持って今もなお広がり、人生に影響を及ぼしています。

そのことから、自分が望んだはずの講座を受講しても「わからない」という不信感であなたご自身を不幸にしています。

すべての原因は、ご自分。

けれども上記のご病気のかたはここで思うのです「私が悪いんだ(または、私が悪いって言うの?)」
答えははいでもあり、いいえです。
はいの理由は、子供の頃にご自身が望んでもいない状態で傷がついたことによるものですから、「はい」。
いいえの理由は、責めているのでも、お前が犯人だと言っているのでもなく、ご病気だからですよという意味での「いいえ」。

想像してみると理解しやすいです。
どんな想像かと言うと、ご自分が40度以上の熱を出しながらインフルエンザにかかりながら(または別の重度のご病気や肺炎でも構いません) オリンピックのリレー種目の選手として出場できるか?という想像です。

出られますか?
出たとしたらどうなりますか?

そういうことです。

「低血糖症」または「セリアック病と低血糖症を併発」している無自覚の患者さんであるがゆえに、オリンピックに出ても「結果」がついてこなかった。
それが、受講しても「わからない」と思ったり、人生で天使との会話を取り入れない理由です。

残念ながら、誰もご自分が「病気」だとは思いたくないです。
「病気」とは「弱い、劣等感、情けなさ、負け」を連想させる言葉や存在だからです。
誰しもが健康でいたい。幸せだと思いたい。
けれど、病気だとわかったなら、治せばいいのではないでしょうか?

関東に住んでいた頃、足が動かなくなったことで私は自分が生まれつき足に障害を持っていることが判明しました。
ですが今は歩いています。歩けなかったり、手持ちの靴がすべて入らなくなった頃を経て、リハビリや、シエルセラピーやシータヒーリングも駆使しながら、 今は障害を持っているようには見えない状態になりました。
障がいは生まれつきですから治りません。けれども不自由することもなく、むしろ動かなくなった前よりもいい状態になり、笑って生きられるようになりました。
私には一生もう履けないとあきらめたパンプスも、今では履いています。
好きなものが履ける。オシャレが楽しめる。かつてはあきらめたはずのことが、難なく自由に楽しめるようになりました。

考えかたや状況、それらどれをとっても納得している上で笑えています。生きています。

私は医師でも看護師でも薬剤師でも医療従事者でもなく、「病気」の立場、患者の立場から様々なことを学びました。
生徒には多くの看護師や医療従事者がいますが、互いに説明し合うことなく一緒にお話できるので楽しく、有難いなぁと思います。

知識は大事です。けれどもそれがどのような原因かは関係ないなと感じさせてもらいました。
たとえ病人でも。障害があろうと。体が弱くとも。
「被害者意識」も。「楽しくない人生を送る私」である必要性も。ないと思います。


私は、神とお話をして人生が変わりました。
大勢の天使ともお話しながら仕事もしています。それは各講座やシエルセラピー、カウンセリングでどのように指導するといいか(その人にわかりやすい伝えかた、 その人の人生や思考、職業や環境に沿った指導や説明の方法)、過去に何があったか、時にはお家や体内のヴィジュアル、そういったものも見せていただいたり教えてもらっています。
その他にも初級でお伝えしているエンジェルカードの使いかた、上級エンジェルヒーラーの内容、過去世やスピリットヒーラーやエンジェルカードを使ったセラピー法をお伝えする講座などでも。
電車や駐車場、時間なども。ありとあらゆることを天使にお願いしたり、お話したり、助けてもらっています。
サポートしてもらっています。


そうなりたくて、生徒はみなさん、講座にお越しになったのではないかな?と思います。
他の先生がたからワークショップを受講されたのではないのかな?と思っています。
それなのに。
どうして「自分ができないこと(わからない、信じられない)」にそんなにもしつこくこだわるのだろう?ということがずっと疑問でした。

わからないことを放置できない性格のため、おひとりおひとりを通して、スピリチュアル的、医学的、心理学的、栄養学的のすべての点から「統計の1つ」として臨床カウントに入れて拝見してまいりました。

日本ではまだ「低血糖症」も「セリアック病」もマイナーでしたりまだまだ全貌が解明されていない点も多いと感じています。
それは自分がかつて原因不明の病気を数回繰り返したことと同じように。
私は自分が「体が生まれつき弱い」や「体力がない」からと、身に起こっている原因不明の病気を「わからない」で放置したり、医師でもわからなかったからと仕方がないとあきらめたりできませんでした。
もうしんどい。
幸せになりたい。
そう思うことと同じように、「治りたい」。そう思いました。

症状は全部違うのに、原因はたった1つ。脳。それが原因だったことは「日本」だけの医学知識や統計ではカバーされなかったものと同じように。
日本の病院や医師にかかってもわからなかった、自分で調べてもわからなかったからと思わず、「治りたい(夢や希望)」のほうにこだわりました。
英語はホテルマンを辞めて以来、忘れていく一方です。けれども電子辞書片手にアメリカやイギリスの医師が英文で発表しているウェブサイトを調べるようになりました。
これはきっと、一度も英語を理解したことがない私でしたら、そもそも日本で「原因不明」と何回も検査結果が出る病気にはかかっていなかったと感じています。 日本で、病院から診断名が下り、治療に専念し、治っていた病気なのだろうと思います。
「治らない(うまくいかない、幸せではない)」には、必ず意味があることだから。

ご自身がかつて低血糖症やセリアック病でした場合「違う(つまり「私は病気ではない」と確信することができる)」と判断することは可能だと思います。
ですが。それらの病気に以前かかったこともないのに「違う」となぜ判断することができるのでしょうか?
天使との会話方法を学んでも「わからない」と判断したり、ご自分が望んで受講したはずの内容をちっとも人生に生かさず、「楽しい」で満ち溢れた人生にするために自分に対してできることを(「まずは自分」)簡単にあきらめ放棄するくらいですのに。


「病気だから走られない」

ただそれだけの理由なのかもしれません。「幸せでない」、その理由は。


ありがとうございます。

8.31
体や心に不調がある。
そのような時は、まず病院に行く。
それが現代を生きる私たちに与えられた「愛」のかたちの1つです。

健康保険制度があっても高額で、収入が追いつかず加入できないことから結果、病院に行くこともできずお亡くなりになる国民が多い国もあります。アメリカもその1つ。
ですが日本はそうだとは言えません。ですのにまず、「病院」ではなく別の選択肢を選びたがるのはなぜでしょう?
怖いから?
それなら「怖い(不安)病院」から「頼れる病院」へとご自身の心の中を整理整頓、浄化してみてはどうでしょうか。
なぜ与えられている「現代医療」という名の愛を避けようとするのか。

治療をずっと続けても治らない。それなら別の方法も試してみる価値はあると思います。ご自身の病気に対する知識をつけることも、その1つ。

心に不調があるのでしたら、心の。体に不調があるのでしたら、体の。病院に相談しに行く。どちらもであれば心療内科を受診する。
ご自身に必要なことを、「まずは、自分。」で、受診させてあげる。お医者さんに診ていただくことを、ご自分に与えてあげる。
それはもう、立派な愛の行動です。

それから代替医療やカウンセリング、ヒーリング、その他治療を受けてもいいのではないでしょうか。

そしてその代替医療の1つとして…
●太っている(or 痩せない、つい食べてしまう、食べ過ぎてしまう、など)
●食べられない食べ物(or 苦手な食材)がある
●落ち込みやすい(or 不安が多い、人が嫌い、苦手、イライラすることが日常的にある、やや人間不信なところがある)
●疲れやすい(or 食後に眠たくなりやすい)
●遅寝遅起き(or 決まった時間にご飯が食べられなかったり眠れない、夜型の生活スタイル)
これらのことが複数あてはまるようでしたら、「オーソモレキュラー」という代替医療を実施している病院へも相談しに行かれるといいかと思います。

オーソモレキュラーは日本にはごくごく最近上陸してきた医療法ですが、アメリカでは30年ほど歴史があり、現在ではほとんどの一般的なお医者さんも同じような治療法から試していくようにしている、 アメリカではポピュラーになりつつある医療法です。
日本ではまだまだ入ってきたばかりの考えかた、治療法ですが、「医療」と「脳神経科学」と「栄養学」の3つが合わさった最先端医学です。

日本でももちろん、医師が診察、治療にあたっています。ただ、健康保険制度は利用できません。まだまだ日本では「対象外」の治療法だからです。
ですが、抱えている悩みや不安、病気が「現代医学」によって治らない場合、「原因」がもっと違うところにあるのかもしれません。 それを、科学の分野から切り込んで医療に応用しているのが「オーソモレキュラー(日本では栄養療法と訳されています)」ですから、数値や理論に基づいた化学から原因を特定・発見し、 回復・根絶へと向かってみる価値はあるかもしれません。
特に「私は太っている」と思ってらっしゃるかたにはオススメです。

生徒さんで、数年前、この「オーソモレキュラー」の治療に何年間か取り組み、心と体の両方の健康を取り戻されたかたがいらっしゃいました。
彼女はとても優しく、思いやりのある人で、そしてとてもとても美しい人でした。
けれどもとうとう「お仕事がつらい」と泣いてらっしゃった時にオーソモレキュラーと出会い、治療を経て、とても明るく笑ってらっしゃるお姿で再びお会いすることができた時、「本当によかったなぁ」と思いました。
私はいつも、思います。生徒さんのほとんどは、そのかたと同様、とても優しくて、心の美しい方々ばかりだと。
真実をいつもお話していますので、時々は「うーん。」というかたにも出会います。ですが、その「うーん」となってしまった背景には、お生まれになってから今日までの出来事と生きかたがあってのこと。
ある日突然、「えぇっ!?」と思うような人間になりましたというかたはどなたもいらっしゃいません。特に私たち人間は生まれてから中学生くらいまでの生きかたが大きく人生に影響しています。
「うーん」と思うかたにも、そうならざるを得なかった経験(つらさ、悲しみ)があるので一概に「嫌な人」とは決めつけられません(決めつけてしまうことのほうが、神や天使に相談する必要がありますよね、 私はすぐに被害者意識になってしまうのですがどうしたらいいでしょうか?と)。
現に、子供が幼稚園児でした時、ボランティアで「絵の先生」としてお手伝いさせていただいたことがあったのですが(いろいろ資格を持っていたりします)、どのお子さんもとっても素直で、可愛く、 褒められることが大好きで、笑顔の素敵な園児さんたちばかりでした。
お魚が苦手なお子さんはとっても多いです。しかし、褒めてあげるとパクパクと一生懸命食べて「見て見て」と自慢してくださいます。褒められたい一心で、苦手なものでさえ頑張ってくれるんですね。 すごくすごく愛らしいなあと思いました。「苦手だったら食べなくていいよ」とわが子には言ってきました。ですが、幼稚園で大勢の園児さんに同じことは言えません。笑
ですから「どうしたものかなぁ」と大人である自分のほうが、園児さんの立場になって考えてみる。
幼稚園など社会的な場面では、個々を尊重するというよりも「皆、同じである」ことが優先されます。それは反対側の先生など教育側から見れば、「栄養が不足しないように」という、これまた愛の動機だったりするのですが、 ご本人である園児さんの立場から見れば「食べられないもの、苦手なものを無理やり押しつけられてつらい」なんですね。
社会で生きていくためのルールを幼少期から大人によって学ぶのが子供ですが、子供の身では大人ではないため理解できないことも多く。「つらい。悲しい。どうして?嫌だ。」という経験が多いであろうと思います。
それはすべての人間、かつて子供でした私たちも含めて。
有難いことに、私の子供は何でも食べられる人間になりました。赤ちゃんの頃は偏食で、洋食系の味付けを一切食べない「純日本人」だったのですが。笑
「食べなさい、食べなさい」と言わなくても、偏食もなく、パクパクと食べる健康的な人になりました。苦手なものはないかを尋ねると、あるにはあるそうですが、牛乳と一緒に食べてしのいできたそう。 素晴らしい知恵だなぁと思いましたら、夫が子供の頃お茶や牛乳で流し込んで食べていたそうで、同じDNAでした(^−^)

そのようにして。子供というものは大変デリケートでありながら、同時にとても臨機応変でもあり、「空気が読める(読みすぎると言っても過言ではありません)」、愛されようと頑張る人だと言うこともできます。 かつての私たちが昔すぎて覚えていないだけで、心や体、人生に悩みを持つ時には、もしかしたら子供の頃のつらさがただぶり返しているだけなのかもしれません。ですが、原因は遥か昔。幼少期。子供の頃。
まずは病院に行き、それでも解決しなければ、カウンセリングやヒーリングを含む代替医療の道へ。目を向けて見てもいいのではないでしょうか。
オーソモレキュラーを含め。

オーソモレキュラーは健康保険による治療ができないため、高額医療になります。とは言え、最初にその心や体の悩みの「原因」を特定するための検査があります。 それだけでも受ける価値は十分にあると感じます。そこから治療を始めるかどうか、考えてみてもいいと思います。
高額と言っても、リーディングやら講座やら受けていらっしゃる方々には高額ではないと思います。あくまでも健康保険適用の治療法と比べて、です。
しかし、それでも高額だと検査を受け、結果がわかった後に思われるようでしたら、治療に利用する「もの」を、ご自分で調達されるといいと思います。 医薬品レベルの最高品質でなくても、iHerbで十分に揃えられます。また、最近の日本市場も少しずつアメリカに追いついてきたところがあり、 プロテインなど国内にいても高品質なものが手に入るようになりました。ただ、たとえばどのプロテインが自分の治療に向いているかなど、ご自身で治療代を浮かせる代わりに見極めるための知識をつける必要はありますが。
自分で自分のことに向き合うのが嫌で、調べるのが面倒くさいのであれば、ご自分で調達して節約しながら「心・体・人生」を健康にしよう(ヘルシー・ライフスタイル)というのは、 ただの「ドケチ」。つまりはご自分への愛をケチっている、愛のない行動です。
そもそも、私たちに起こる「悩み」とは、時間をさかのぼり、その悩みの「原因」が起こった時から現在まで「見て見ぬフリをしてきた、臭いものには蓋をして放置してきた」ツケがまわっているだけだからです。
その蓋には「どうせ私が悪いんだ」「私は悪い子です」など、愛のない言葉でご自身をおさえつけ、卑下し、いためつけてきた言葉が書かれているものです。人によってはたくさんののしった言葉がビッシリと書かれているものなのかもしれません。
けれどそれは、たいてい中学生までのご自分が書かれた、子供の知識と子供の考えによるもの。
いろんなことが理解できる大人になってから書き込まれている文字ではありません。いろんなことを知らないがゆえに書いた文字ということができます。
けれども、映画によくある「悪霊をふうじこめるオフダ」のように、2歳の頃にかぶった蓋を、30歳や40歳を過ぎた今もかぶりつづけているがゆえに「悩みやつらさ」を抱えているだけです。 2歳の頃のご自身が思った、ご自分を戒める内容。これが蓋であり、はずさなければ一生有効だなんて、そちらのほうがビックリしませんか?
けれども2歳の頃のご自身が何を思っていたのか、逐一覚えている人のほうが少ないはずです。
それを、おもしろいことに「科学」の分野から、医療と提携して「外し、治療、解決する」をするのが、オーソモレキュラー。
「ガンコな汚れ」のように、天使と出会っても解決しない場合は、病院、そしてオーソモレキュラーの治療を試してみてもいいかもしれません。
その考え、そのしつこい思考、原因は医療単独でも、スピリチュアルでもなく、科学と医療の融合による最先端医学によって解決するものなのかもしれません。

心身共に健康になってから、再びスピリチュアルなど「目に見えない」世界に戻ってきても遅くはないと思います。
あらゆる選択肢、あらゆる治療法を、まずはご自分に与えてあげる。まずは、自分。
それも、愛です(^−^)

8.24
9月17日(日)のみスケジュールに空きができましたので、先着1名様ですがお申し込みに応募いただけます。
内容は「カウンセリング」または「講座」のどちらでもOKです。
1名様が決定しました後は申し訳ございませんが、応募いただきましても返信内容にてお断りさせていただきますことをあらかじめご了承の上ご応募ください。

9月17日以外は、通常どおり、12月以降のご希望日程にてお申し込みいただけます。
その場合、現在は「カウンセリング」以外はお休みをいただいておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。
ありがとうございます。

8.9
今日は故郷に原爆が投下されてから72年の日。広島、長崎、沖縄そして終戦記念日とともに黙祷を捧げます。

72年はもう遠い昔のように感じる年月ですが、確かにこの日本に存在した惨劇だと実感します。今でも原爆投下直後に撮られた写真を見ると、時代は何も関係ないことだと思わざるを得なくなります。 今もし同じことが起こっても… きっと写真と何も変わりない。そのように感じるからです。
出来事が起こった後、自分に何ができるか、残された人間(それはその地に新しく誕生した命としても)には何ができるのかを考えると、 その惨劇から感じたことと学び得ることからどのようにして自分たちは生きていきたいか、生きていこうかと思うことだと思います。
過去の出来事、人々が教えてくれたこと… それを感謝とともに生かす。

憎しみは、いつまでも抱えていることは自分自身が辛いことです。最初は憎んだり、ひどいと思ったり。それは当然のことだとも思います。しかしながら、いつまでもその気持ちを持ち続けていることは 自分を自分でつらくさせること。嬉しさや幸せより、つらさ、嬉しくない感情を持ち続けて、果たして本当に心の底から笑顔になることができるかと尋ねられれば、それは「はい」とは言い難いものだから。
言葉に、このようなものがあります「罪を憎んで、人を憎まず」。
人とは双方のことを指していると感じます。そして罪には原因がある。その原因がわからないままであれば、いつまでも憎むことになるからこそ、自分の中で相手の立場になってみる。
何かそこには焦りがあったのかもしれない。ストレスが非常にかかる状況があったのかもしれない。相手のことを想像する。
真実はわからずじまいでも、「もしかしたら、そのような悲惨な生きかたで生きているのかもしれない」と想像することで、憎しみから慈悲へと変化する。
ほんの少し、数パーセントであろうとも。
慈悲は愛の一種です。そしてその愛は無条件の愛。当事者の双方への。自分に愛をと積極的に行動することでおのずと相手への愛にもなるのが無条件の愛。
ですから決して最初から許せるような広い心を持ち合わせていなくても大丈夫で、すべては「まずは、自分。」。そうだと思います。
自分の平和を、まずは祈る。

「敵も愛しなさい。
愛し愛し愛しぬいて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。
愛すれば愛される。
愛されたら、滅ぼされない。
愛の世界に敵はない。
敵がなければ戦争も起こらないのだよ。」
こちらは医学博士の永井隆さんの、お子様たちへと向けた言葉の一節です。
長崎原爆の被爆者でもあり、キリスト信者でもあったかたです。
キリスト教における神を信じていながら、そのアメリカから原爆投下された長崎、日本。というご自身の立場はいかほどかとも思います。「なぜ?」という気持ちも大きかったのでは、とも。
けれども医師としての救済活動や、戦争を二度と繰り返さないための焼け野原になった浦上天主堂に桜の木を千本植えるための寄付(永井千本桜)を行ったりと、「憎む」を選ぶ以外の行動を積極的に探し、自分にできる限りを行った偉大なかたです。
私にはまだ永井博士のように、事が起こった直後でさえ「憎む」以外を選ぶ生きかたはできていませんが、憎んで憎んで憎んだ後に、「これから私はどうしたい?」と思えるような自分自身であり続けたいと思っています。
いつまでも憎んで生きるのか。辛さを自分に容易に許すような自分でいいのか。いつまでも悲しいこと、苦しいことを繰り返し思い出すような生きかたをずっとして行きながら生きていきたいのか…。


少し、書き物として、自分自身の過去世(前世)をまとめたブログを開設しました。
http://ameblo.jp/sayakazense/
72年がいい機会だと思いました。
ご興味ありましたら。どうぞ。まだまだ1つめも途中ですが。
(ちなみに1つめのブログ投稿をメールで行いましたところ、全文文字化けしてしまいました。2つめの記事にもう一度アプリから書き直しています)

他人の平和を願うことも、自分の平和を願うこと。そして自分自身の平和を願うことも、回り回って人々の平和を叶えていく1粒の輝きであり、願いです。

7.22
お仕事のご依頼の受付を再開いたしました。詳しくはTOPページをご覧ください。
日程のご希望は10月以降からでお願いいたします。
ありがとうございます。

7.7
七夕(^−^)
日記(及びブログ)を書くことは、時々「書いて何になるんだろう?」と思うことがあります。
お仕事のことは、本当に興味のあるかたや「どうにかしたい!どうにかしよう!」と思うかたがお越しになるので「できる限りのすべてのことをしたい」と明確なのですが、 文章となると、「必要かしら?」ということが頭によぎることもあり、「書こう」と思う手を止めたり、書いたものを消したり、パソコンの電源を立ち上げても思い直して消したり…と。
そういうことを時々してはいます。
たくさんの人という愛が、私たちを日々助け、支え合ってくれています。世にある文章、ブログ、日記もまた同じ。玉石混交ではあるけれど。特にシータヒーリングのインストラクターをしていた頃は思いました。 シエルセラピーをするかたわら、出会った「シータヒーリング」。同じ愛や神だけれど、「仏教とキリスト教」のように、受け取る人が違うと少し違った部分もあり、受け取った仏陀かイエスキリストかの違いで 「仏教にはあるけれどキリスト教にはない、キリスト教にはあるけれど仏教にはない」という点がありながらも「つまるところ、すべては愛」であるところは同じように。
知り合いの身体の治療、ご自身の身体の治療から出会われたシータヒーリングと、病気やけがではなく経済面も含めた心や人生悩みから出会ったシエルセラピー。
それでも同じ愛、同じ神、同じ素晴らしさに嬉しく、一時期のみインストラクターをしながらも、受講されたかたが「シータヒーリングを理解できていないから、結果、実はできていない」というかたのブログを参考にされたり、 すべてのヒーリングもリーディングもチャネリングも「個人差(いわゆる個性)」があり、自分は自分、他人は他人なのですが(個性がもしないのなら、この世に職業はたった1つしか存在してなかったでしょうし、価値観、思考、このみや嫌いなものも全世界中たった1つずつだったでしょう) 実際にご自分が「できている」ことを認めたくはないがゆえ、認められず(被害者意識と他人軸で生きているとそうなります。すべては人間がゆえのマイナス思考がそうさせている現象で、それは脳神経科学から見れば立派な人間らしさです。 幸か不幸かはご本人のみが決めることで、一般的にそれが不幸であるということは心理学上、統計を出されてきた結果です)、結果、ハデな文章を綴るかたの方法をご本人ではないけれど取り入れ、そしてまたその結果、見事に「シータヒーリングができる人」から「シータヒーリングができていない人」に お望みの通りなられるかたが、ごくわずかですが、少数いらっしゃいました。

心理学では、すべてのことは「本人がそうなりたいから、そうなっている」とみなします。つまり、シータヒーリングができない人は、「できる人になりたくないから、できない人になっている」「お金でずっと苦労してたいから、お金がいつもない人になっている」などです。
もちろん、「はい、そうなんです♪」というかたがいないこともよくわかっています。ですが、真実はそう。つまりは「潜在意識」の分野ですね。潜在意識が「いつも劣等感を抱いていたい、苦労してたい、困ってたい、できる人になると他人から優しくしてもらえなくなるからできない人や貧しい人や苦労してる人や病気を持っている人になっていたい」 と思い込み、実行しています。潜在意識とは、私たちのいわゆる「バック(Back )」でもあり、面白く言うと「闇の権力者」でもあり、実のところ自分自身です。
記憶では覚えていない。けれど、お母さんのお腹の中に豆状に存在した頃〜中学生の頃までに何かを思い、何かを誓い、何かに気づき、何かを得た「思考」が、潜在意識の中に入っています。過去世だとかも入っていますが、それはごく一部で(もしも過去世が重要なのなら、私たちは生まれつき、過去世で存在していたところすべての言語を話すことができるスーパー言語人間でいることでしょう) ほとんどは、生まれてからのものです。

ということで、心理学ではその「自分の望み」が、「いやいや、そんなことは望んでいないよ」という場合、ご自身にはどんな思考があるがゆえにその望んでいる現在の生きかたやご本人の今の状態が作りだされているかを3年以上かけてご本人に気づいていただくために、カウンセラーがずっと3年以上、同じ1件の内容でお付き合いします。
3年は長いよ、という場合、1年に短縮できるのが天使(潜在意識が嫌だよと反発することをうまく大回りで避けながら、導いてくれます)、1年でも長いよという場合、1日で(しかしながら潜在意識は大反発)というのが愛(神や創造主と呼ばれる存在)。という流れです。
どれも無条件の愛に基づいてセッションしている存在や方々ばかりです。ですから、ご自分の状況にあわせて変えたり、組み合わせたりするといいなと思います。
私は「ちっとも待てねぇ!」というせっぱ詰まった人生、悩みの数でしたので、神だったのだと思います。お仕事としてしているカウンセリングも、「3年もだなんて、逆の立場になって考えると辛いよ、しんどいよ。」と思えるので、シエルセラピーの時と同じ、クライアントを見つめながらも実は神や天使や守護霊やマスターなど大勢と話し合いながら、見せていただきながら、1日で悩みに結果が出る(終わる)カウンセリングをしています。
普通に考えると「怪しい」のですが、自分がいつもそうしているように、他の人にしているのが自分だから、このお仕事をしているのだろうと思っています。自分がする場合は料金が発生していないだけで。その労力と、これまでしてきた経験代に支払い分も含まれているのがいただく料金ですから。生徒の場合は、神や天使やマスターたちとお話や相談するための方法をワークショップや講座や本で学んでいますね、 ですから、その料金も含まれているということです。ただ読んだだけや参加しただけでは「できない」ですね、ですから理解力や気づきや練習してこられたこれまでの代金も含まれているということです。「対価」とはそのようなもので、罪悪感を持って「お金なんてもらえない」ということは、つまり、ご自分をネガティブに責めている(しいたげている、つらくあたっている、大切にしていない)ことです。

以前も昔も言いましたり、書きましたが、本当に「できていない」かたにはその場で「できていない」と伝えています。そうして、どうしたらできるようになるのかも伝えています。
それは一見「否定されている」ようにも見えるかもしれません。けれど、そこがポイントなんですね。なぜ自分は否定されているように捉える思考を持っているのかの。
あなたがもし「1+1=500」とおっしゃったら、私は「違いますね」と答えます。それだけのこと。1+1=2なので、違う。と伝えているだけなのですが、「違う」と言われたかたは100%怒ったり、悲しんだり、「ほらね!やっぱり!私ってダメだ!!!」と思います。
そしてさやかに対して「ひどい人!!!」と思います(笑)
かわいそうなさやかです(笑)あはは
もしも私が塾の講師だったなら、「1+1=500」と生徒が答えても「違いますね」と先生として言った場合「そうなのかぁ。」と生徒は受け入れます。そしてどうして500にならないんだろうかと考えます。500以外になる方法はないか、再度考えます。けれど、私のお仕事ではそうされるかたはいません(笑)
それが、「潜在意識」。
簡単に「あら、そうなのね。500じゃないのね。じゃあ、何だろう〜?」と思えないのが、潜在意識にしみついたマイナス思考が存在している証拠なので、「くっそー、こいつ!(こいつ=さやか。笑)」になります。
1+1=500と答えたかたは、これまでの3、40年を「1+1=500」の考えかたや価値観、思考で生きてきました。1+1=500なので、きっとお金の計算も合いません。そのことから、必要のない金額を多く支払ってきた人生でした。
たとえば私の場合は、親に義務教育課程のみでしか学費は出してもらっていません。義務教育課程を終えたあとのすべての学業にかんする支出は全額自分です。その時々必要なお金はアルバイトで支払い、学費は奨学金として社会人になってから返済しました。もしも私に「1+1=2」という思考が潜在意識にしみついていたとしたなら、 親が払っていたのでしょう。ですが私はひどいマイナス思考人間(潜在意識が)でしたので、日本の、ほとんどの子供がしてもらえる親の義務もしてもらうことなく大きくなりました。
そのように、自分自身も1+1=500どころか、8兆5億4千万くらいの答えでしたので(笑)、「1+1=500」と答えてさやかから「違いますね」と言われた時の生徒さんの落胆や「くっそー」の気持ちも、よくわかります。ですから、淡々と「1+1=2」と思考する生きかたに戻られるよう、最善を尽くしてきました。 時ににくまれ(笑)、時に嫌がられることがあったとしても、「講座に来るということは、それをどうにかしたいと本気で思ったから、申込み、いらしている」とわかっているからです。
表面だけ見ていれば、「くっそー」とも、嫌な人認定されることも、避けたいです(笑)
人間だもの(^−^)
けれど、私はいつも有難いことに愛の存在から「本来のこの人」の姿をいつも見させてもらっています。感じさせてもらい、教えてもらっています。ですからこそ「こうしたらいい、こうはどうだろうか」と何者もの懇談の中、講座もセッションもおこなってきました。
潜在意識が反発することを恐れ、私が「いい人と思われたい」と自分のことだけ考えていたなら、「1+1=500」に「わぁ、すごーい!計算できるんですね!素敵☆」なんて、間違っていることは伝えません。確かに計算はしているけど、合ってないねとも。そして、そのようにされている方々のほとんどは「1+1=500」が間違っているとも気づかないから笑っていられます。
「まずは、自分。」これができていないから。できていないからこそ、気づかない。ただ一緒にいて、盛り上がっているだけ。女学生が集まった時のように。女子会のように。ディズニーランドへ遊びに行った時のように。ディズニーランドや女子会や女学生が悪いのでもよくないのでもありません。盛り上がることはいいことです。けれど、それをしてもお金が増えないから、人生がうまくいかないから、 悩みがあるから、辛さや悲しみがあるから、講座やセッションに申し込んだのではありませんか?と私自身は思っています。ディズニーランドへ行くだけで人生が幸せになった人は大勢いると思います。女子会や飲み会で人生がハッピーなかたも大勢いらっしゃいます。けれど。
そうではない人が、申込みボタンを押していらっしゃると、私は思っています。かつて神と出会った時の私と同じだと思って。
それなのに。それでディズニーランドご提供をしても、私は「自分が求めた目的と違う」と逆の立場なら思うことと思います。
反対の立場なら。
嬉しいことをする。自分がされたくないことは、しない。クライアントも生徒も求めているのは「さやかという女子とわいわいする」ではないとみなし、認識し、「1+1=500」に「違いますね」と答えています。その上で、なぜあなたが500と思い込んでいるかや、ご自身が500と思い込んでいることに気付いていただいたり、「1+1」の答えの真実に気づけるよう指導しています。
憎まれよう、嫌われようともせず、好かれよう、愛されようともしていない。いつも「自分」を見つめてきたように、クライアントや生徒を見つめている。ただそれだけ。
「まずは、自分。」を、クライアントや生徒にしているだけ。
その結果、憎まれるか愛されるか何かがあるかやないかは、その「相手」であるクライアントや生徒の自由でもあり、そこは特に重要視していません。
なぜなら、1+1=500だからこそ憎んだり嫌ったり「否定された」と思っているだけで「1+1=2」という本来の姿に戻られた後のそのかたとは違う思考であることがわかっているからです。

ですから、容赦ないです。それを「怖い」と思う人もいますが、これまでシエルセラピストになられた生徒さん全員は「嬉しい」と捉える潜在意識、思考まで「本来の自分」に戻られた方々ばかりでした。ウェブサイトに載っていないシエルセラピストももちろんそうです。ある一定、独り立ちすると載っていない人もいます。私は「大丈夫」と思えるから。
さやかのウェブサイトに載っていなくても大丈夫なかたは、載っていません。もちろん「頼りない人」が載っているという意味でもありません。「載る必要がある」そういう意味です。

講座にいらっしゃってシータヒーリングを習った。使えるようになった。そういうかたが、「シータヒーリング」という名のついたディズニーランドへ遊びに行って楽しんだ、こーんなに楽しかった!」グッズやお土産をたくさん買ってきたから、それから何年もかけてお土産がどんなに楽しいかグッズが素敵かを延々とハデに書いている人のブログを見て「すごいな」と思った。 そうして、使いこなせる人がディズニーランドへ遊びに行った人の真似をするようになった。「置き換え」を、パレードを見ながら一緒に踊るダンス方法に変えてしまった。ミッキーやミニーが踊っているダンスや手の振りかたにすり替えてしまった。
その結果、人生何も変わらない。けれどディズニーランドへ遊びに行った人のブログはハデです。ダンスもハデです。けれどそれはダンスであり、ディズニーランドでの遊びかたであり、シータヒーリングではない。
だから、いつまでもお金に困ったり、誰かから嫌われていたり、愛されていなかったり、つらかったり、悲しかったり。
マイナス思考は何も変わってません。変わったのは、「できる私」から「できない私」になったことだけ。
けれどもマイナス思考や潜在意識は「できない私で生きていないと、もうこれ以上人から辛い目にあわされながら生きるのはごめんだから」という思考で生きています。ですからこそ、ディズニーランドへ遊びに行った人の真似をしだして、結果、さやかから「アホか?」と言われます。
「アホか」はマイナス思考で捉えると、否定されているように見える代表として言います。そう言われたいから、自分でそうなるようにした結果なんだと理解できるように、言います。「人生を自分で台無しにする、それのどこが幸せなの?」という意味でもあり、「あなたは本当にそんな風にいつまでも「私は可哀想な人、悲劇のヒロイン」で生きていきたいの?」という意味でも。
1+1=2と捉える自分に戻れたのに、別のマイナス思考が500にまたさせよう、しかも500ではまたさやかに見破られて気づかれるから、8兆にしよう。とさせます。「まずは、自分。」なしに生きていけば。 それでもまた見破られるので「それはあなたではない」という「違いますね(あほか)」という言葉がさやかから発せられる…
あぁ、それならさやかを全否定させちゃえば、私はさやかに永遠に気づかれることなく不幸で生きていける!!と、マイナス思考(潜在意識の中にある)があなたからさやかを遠ざけよう(嫌な人に認定させたり、お金がなくて受講できない状態にしたり、会わせなくなります)とします。

いつも、私たちが振り回されているのは自分の「マイナス思考」。
人や何かがではなく、いつも「自分」。

ですから私はいつも、自分にも人にも思います。「どうしたい?」「どうなってたい?」
これが、本来の自分に戻る「道しるべ」となる問いかけ、質問だから。
いつも自分に、困った時も、迷った時も(もちろん嬉しい時も)尋ねてくださったらなと思います。
本当の答えは、いつも自分自身が知っている。だから。

難しい場合は、エンジェルカードを使って、日々、天使に相談やグチや悩みごとを聞いてもらったらいいなと思います。

人間はDNA上に、原始時代からの名残「マイナス思考」を全員持っています。
生まれつき持っているからといって、そのままマイナスな人生を歩んでいていいのか。
生まれつきだから、治らないからといって「諦めて」もいいのか。

生まれつきだからこそ、できることがあっての今の自分、今世での命なのではないか…そのことを、「本来の自分」に思い出してもらえたら嬉しいなと思っています。
DNAを持っているのは、肉体。「本来の自分」は、魂。だから。

ありがとうございました。

7.1
こんばんは(^−^)
もう7月ですね☆

「まずは、自分。」
この言葉は、直接お会いして、直接さやかの口から聞いた人にしか理解「できない」言葉なのかもしれません。

「まずは自分」は、自分ばかりを大切にして、他人はどうでもいい。という意味ではありません。ましてや極端に言って他人にひどい振る舞いや態度をしてもよくて傷つけてもいいという意味でもありません。
現実逃避や頭でっかちで生きていると、「まずは自分」というものは、つまり、自分のことばっかりしてあげて、他人は放置やどうでもいい存在として扱いましょうという言葉の意味だと「悪意フィルター」を通して変換され、理解されてしまいます。
その悪意フィルターとは、「マイナス思考」が正体なのですが、マイナス思考という観点や視点からどのようなものを見、どのようなことを考えようと、どこまでいってもそれは「マイナス思考」というフィルターを透過している限り、「愛」に基づくことはありません。
そのことを、残念ながらこのようなインターネットや文字では「自分だけでは気づかない」。
それで、直接お会いした時に聞いた時に理解できるものとの「温度差(理解の差)」ができてしまいます。
また、直接お会いしても、お家に帰って、また「この30年、40年に渡ってしてきて、しみついたマイナス思考グセ」を繰り返しても、直接お会いした時に伝えた「まずは、自分。」も含めたあらゆる愛でさえも、「悪意フィルター」が 愛や言葉やさやかという人間を「マイナス思考」に基づいたものとして認識・理解してしまいます。

ですからこそ、「まずは、自分。」
悪意フィルターをしらずしらずに身につけたことにより、人間関係が「マイナス」方向へ、金銭面が「マイナス」方向へ、恋愛が「マイナス」方向へ、お仕事に関する事柄が「マイナス」方向へ、と
「自分の人生」がマイナス方向へと「傾いている(かたむいている)」その事実を、直面する。それが「まずは、自分。」の始まりであり、「私に貯金がないのは○○さんのせい、○○をしなかったらよかったせい、○○をしていたらよかったせい」などと、
何かを「マイナス(下げ)」認定している自分がいることを、まずは認めること…
たとえば、私が職場で嫌われているのは、仕事のせい。同僚の○○さんのせい、私に貯金がないのはお給料が少ない会社のせい、などと、「何か」をマイナスに見立てているご自分がいるから。という現実をまず認識することから始まります。
「もしも、私が何かの会社だったり、どこかの誰かだったりしたら、果たして、そこで働く従業員や、他の誰かからマイナスとして見られたり、認識されたり、嫌がられたり、嫌々接せられたり、悪口を言われたり思われたり、いやな風に思われて、幸せかなぁ?」と。
私がもしも、たとえば水道の蛇口だったとしましたら、使用している人から「この水、きったないなぁ!この水まずいなぁ!!」と思われていたならとても寂しくなります。悲しくなります。
私が蛇口だったとしたら、自分なりにできることをしていると思います。ひねったりレバーを動かす人が「お水が必要、お水がほしい」と思ったからこそ動かした、その動作に、「よしっ☆」とお水を流していることと思います。
それが私(蛇口)だから。
ですが、そのように「悪意フィルター(=マイナス思考)」をとおして思われていたなら、すっかり寂しくて、「あぁ、私ってきっと、必要ないんだな。こんなに嫌われて。もう動くの、疲れたよ(パトラッシュ)。」と、蛇口をひねられても、お水が蛇口をとおっていくように動こうとはしなくなると思います。
うつ病は、悲しみが重なり過ぎて、自分の体なのに自分で動かすことができなくなり、「動いて」と思っても、もうとうとう動けなくなるまでかたまってしまった状態です。
「岩塩」って、塩が重なって重なって、できますね。それと同じ。流した涙や、流すことさえできなかったり許されなかったたまった涙が重なって重なって、自分の全身に岩塩のようにかたまり、カチコチにして、動けなくしてしまいます。
蛇口は、蛇口です。蛇口として生きたいです。けれどもそれは望まれていないと思い、動いても動かなくてもどうせ同じと思い、動いても悲しい思いがまた重なるだけ。
たとえ話をしましたが、悪意フィルターに自分を包んで生きている蛇口が私だとしたなら、そのような蛇口です。そして、悪意フィルターで生きている場合も、そのような感じです。

自分をまずは大切にしていないと、しらずしらずに思考がマイナスになっています。
けれども自分は、そんな「悪意フィルター」を標準搭載して生きているなど、思ってもいません。気づいてもいません。「悪意フィルターがあるよ」と教えてくれる人が奇跡的に現れても、気づいてもいませんから「そんなの持ってない」と気づきもしません。
気づかないことで、自分のこともしらずしらずにマイナス思考で生きています。悪意のないこと、悪意のないものもマイナス思考で捉え、生きています。
自分を大切(=悪意フィルターに気づき、最初は意図的に努力してマイナス思考で自らを見ない、考えない、物事をとらえない、人を判断しない)にせず、悪意フィルターをとおして生きていることで、結果的にもプラスかマイナスかと言われたら「マイナス」としか思えない現実が起こります。
その結果、あらゆる人やものや事柄がマイナスに思えるため、「なんでモンク言ってくる人に優しくしないといけないのよ!」「お給料少ないのに、なんで会社で頑張れるもんか」と、他人や何かや事柄に対して自らも、悪意フィルターをとおして行動したり、思ったりします。
その結果、あらゆる人やものや事柄も、マイナスなものがどんどん身の回りに起こったり、存在していたりして「幸せ」とは思えない人生を送ります。
以下、ループで最初に戻ります。

「まずは、自分。」
これは、自分だけを大切にして他をおざなりにしたり放置したり、ひどい扱いをしたり、適当にしてもOKですよ♪ という意味ではありません。
そこが、インターネットや文字では伝わりにくい。なぜなら、いつも、悪意フィルターをとおして生きていることが癖だから。
悪意フィルターは、もう標準装備されて生きています。
ですから、最初は本当に努力して、意図的に、あえて「頑張って」と表現しますが「マイナス思考で思ったり考えたり行動したりしない」という「まずは、自分。」を皆さんの嫌いな「訓練・練習・忍耐・努力・修行」して繰り返し繰り返しおこなっていく必要があります。
なぜなら、悪意フィルターが生まれたのは、もう自分が覚えてもいない昔である子供時代だから。
私たちはマイナス思考のエキスパート、プロ中のプロです。
しかしながら、それで人生がマイナスに傾いているということを、教えてくれた学校の先生も、親も、会社の上司も、誰も存在しませんでした。なぜなら、気づいていないことは伝えられないから。
誰にも教わってもいないし、「1+1=2」のように「マイナス思考をすることでマイナスな現実が生まれる」と小学校時代に教わったこともありませんでした。
教わってはいないため「人間の脳は意図的にプラス思考をしない限り、すぐにマイナス思考をする」という原始時代から人間がしてきた癖、DNA情報の伝達により、12歳〜15歳頃に「悪意フィルター」が誕生します。
ちょうど思春期で、親からはいろいろ言われるようになり、学校では優秀な成績かどうか比べられ、順位がつけられ、他人から批判されたり、否定されたり、が起こってくる時代です。
原始時代、人間は「のほほーーん♪」と生きていたら、恐竜に襲われたり、別のむれの人々から奇襲をかけられたり、災害にあったり、事故にあい、命を落としていました。その危険性がないかどうかをキャッチするフィルターが「悪意フィルター」の第1号でした。
現代、ちょっとやそっと、のほほーんと生きていようと、イコール即死には繋がりません。もちろん、時々は「つらい」「痛い」目にあうことはあると思います。けれども、そのような悪意フィルターに変わって、現代人を救うのが「知識」と「愛」の2本立て、2個セットです。
1人ではわからないことがあっても、友人と2人いれば、助け合って生きていくことができるでしょう。たとえば1人であろうと「だまされない方法」をどなたかから(本を含む)助けてもらっていたなら、だまされることもないでしょう。 そもそも、「だまされない方法」以前に、あらゆる知識という人々の愛で助けられながら生きていれば、だまされない方法でさえ、知る必要も、勉強することもないでしょう。
余談になりますが「神の知識」という別名を持つ天使は「大天使ラジエル」でしたね(^−^)
天使の別名は、「愛」には様々な別の形があることを教えてくれています。「神の勇気」は大天使ミカエル。「神の美」は大天使ジェレミエル。「神の癒し(天使のお医者さん)」は大天使ラファエル。など(^−^)それは全てが愛の側面、愛を別の角度から見たら、というものですね。
いつも文章が長いのは、「私」と「あなた」が、別の場所で別の時に生まれ育ち、別の経験をしながら別のことを考え、別の人生を歩んできたことによるもの。
私たちがまったく「同じ」で「同じ」ことしかしていなく、考えていなく、思考もしていないのなら、何も言わなくても、何も伝えなくても、すべてを理解できるでしょう。
けれども私たちは同じ「人間」ながら、まったく違う「人間」。
その膨大な互いの間にある「あらゆる距離」を、ほんの1mmでも縮めて理解をしてもらいやすくするため。
伝える限り、何か言いたいことはあります。けれども、言いっぱなしは誰にでもできること。理解をしやすくする、それが「講師」つまりは伝える側の腕という名の愛。
長くても読んでいる人はいるし(少なくとも私自身は読んでいます)読んでいない人もいます。愛は押しつけではないので、選べます。私はいつも、「読む」という選択をした人に対して(それはほぼ生徒ですが)伝えています。

生徒は直接、さやかに会い、話を聞いています。私がどのように言い、どのように伝えているか、目と耳と感覚をとおして受け取っている上で、はじめて「理解」しています。
けれども生徒であろうと、お家に帰るとさやかはいません。居ませんから、再び「悪意フィルター」を通して生きることを再決定することだって、できます。
そうして、さやかに会っている間は思わない思考や生まれない考えも、人生の大半の部分で思いながら生きることを選択し、決定していくことさえもできます。

どう、するか。
それは自分自身が「どう、したいか」。

「まずは、自分。」それは、そのような意味で、悪意フィルターという名のマイナス思考は、誰もどこにも見えない、聞こえない、触れられないものです。
そんな「目には見えない」世界。
それが、皆さんが天使や神やヒーリングやリーディングやチャネリングという目には見えない世界があることを知ったきっかけです。

空想の世界、現実逃避では生きていくことも、食べていくことも、幸せになることもできません。
ですから、インターネットは毎日見るけれど、「まずは、自分。」をすることを選ばずに生きる人に、「まずは、自分。」は理解できないことでもあり、決意も行動もできないことでもあり、繰り返せないことでもあり、結局は「何も変わらない」を選んで生きているものと。
毒舌かもしれませんが、書きました。

今日を生きる私たちが、今できる「まずは、自分。」。
それは、「今日生きていること」に対して「偉いね、私。」と褒めることです。
上辺でも、言葉だけでもなく。
あなたがいつか、誰かにつらい言葉を言われた時と正反対のように。
あなたがいつか、誰かからつらい態度をとられた時と正反対のように。
あなたがいつか、とても不安で、怖くて、恐ろしくて、顔が真っ青になるおもいをした時と正反対のように。
生きる必要があるから、私たちは生き、私たちは「生きている必要がある」と承認されているからこそ、生きていて、生きながら喜び、生きながら笑い、生きながら幸せにご自身をしてあげることができるからこその命であり、 たくさんの愛や助けや知識、勇気や美や癒しに包まれ、愛され、守られ、安全で平和で生きていて、あなたが生きたいように生き、また人々も生きたいように生きられるからこその判断材料「喜怒哀楽」が標準装備しており、 その判断とはすべて「自分」が自分に対して喜びを与えているか、怒りを与えているか、哀しみを与え、楽しみを与えているかどうかが人生を見れば一目瞭然になるよう、メモリ、はかりとして搭載されているからこそ、それを目安にしながら 健やかに、あなたの人生を生きよ、幸せにという神の愛に満たされながら生きているのが人間の姿。

私たちは誰かの奴隷になるために今世、生まれて来たのではなく、支配者になるために生まれてきたのでもなく、奴隷だった時代も支配者だった時代も過ぎて、この時代ですべての命のメモリーに刻まれた愛を活用して、生きる。それを決めてきたからこそ生まれてきた命です。
病気の人たちは一生懸命、治ろうとしています。
夢がある人たちは一生懸命、夢を叶えようとしています。
その過程にはつらさも、苦しさもあります。けれどもその人たちは同じように「笑顔」もある人生です。
なぜなら、「まずは、自分。」で生きているから。

本当はどこにも先生などいなく、すべてのあらゆる師は「自分自身」です。
あなたが素晴らしいのは、あなた自身の愛でも功績でもあり、栄光でもあり、同時に神の愛や功績でもあり栄光でもあり、つまりはすべての人々の愛と功績と栄光です。
あなたの幸せ。それは、神や人々、つまりは「すべて」の幸せです。

6.2
お申し込み多数のため、5/31にて、お申込み受付を休止させていただきました。
休止中のお問い合わせは「お申し込み」フォームよりご送信いただけます。
ありがとうございます。

普段「勧誘」と思われますのがあまり好きではないため、私のほうからメールや手紙などご連絡をお送りすることはほとんどございません。
ですのでいつも、近況やお申し込み時に後日談やご感想など、ご自身が思われました内容をお伝えくださいますことに心から感謝いたしております…☆
心の底から、好意であっても、それをたとえば「勧誘」など、心ないものとして捉えるかたや心ない人間として思われますことはあります。
みながみな、相手を思いやることはできません。
それはまず最初に、ご自身がご自分を思いやることが足りない、欠けているからという理由がゆえんです。
「まずは、自分。」
人間関係、人生が素晴らしいものとなることのスタートは、いつも、まずはご自身から。です。
ご自身が「誤解されること」のほうではなく、「幸せに生きられてはいないからこそ、他の人のことも思いやることができない、ネガティブに捉えてしまう状況にいる」人のことを受けとめ、その上で 「自分ならどう生きたい?どう生きる?」と問いながら、そのパッションやエモーション、フィーリングに沿って毎日を過ごすことが大事なことだなぁと私自身は感じています。
時に、人や出来事は「鏡」だけれど、すべてがすべてそうではない。
いつも見つめるのは、自分。本来の自分。
そのような芯のある心、いつも天使や神が教えてくれている「初心を忘れない」心で、笑顔に過ごしていきたいと思います。
いつもありがとうございます。

5.17
人生や毎日が「どうなったらいいか、嬉しいか」を考えた時、考えても考えても思い浮かばない時は「思い浮かばない」ということを受け入れてあげる。
自分の人生に夢や希望があるといいし、夢や希望や目標を持たせてあげたい、人生が夢や希望で溢れているキラキラとした幸せな、嬉しいものでありたい… そう思う気持ちが、まず素晴らしいものだから。
ですから、もしもそれでも思い浮かばなければ、無理やりに夢や目標、希望を持たせてあげないこと。
「こうなったらいいな」が思い浮かばないことを否定しないことが大事。なぜならそれは、愛だから。それも、愛だから。

毎日をただ、なんとなく過ごしているのかもしれない。
毎日の中で「しなきゃいけないこと」「やること」をこなしているだけの日々の繰り返しなのかもしれない。
けれどもそれも、立派な愛。
生きることは夢や希望に溢れているものだけれど、そうではない時だってあっていい。
長い間、「そうではない時」のほうを過ごしていたとしても、それはそれでいい。なぜなら、生きることは簡単ではない時もあるから。
簡単ではない中、毎日自分を「生きさせている」。これはもう、これだけで立派な愛。
私はうつ病を3回目に発症していた時、「何もできないくせに生きやがって」と心の中で自分を罵倒していました。
妻なのにご飯も作られなくなった。やる気も出なくなった。お布団から出られなくなった。夫に「行ってらっしゃい」も「お帰りなさい」も言えなくなった。 立ち上がることさえ難しくなった。体は健康なのに、その頃はお家が狭かったのでたった数歩で行けるキッチンが「さだこ」のようにほふく前進しながら2時間経ってもたどりつかなくなった。 途中でいつの間にか気絶したのか疲れ果てたのか眠っていて、結局キッチンにたどりつけない毎日だった。
これを読んでいる人が、たとえそんな状態ではなくとも「生きてるだけで、もう、偉い。」このことだけはいつも自分に言ってあげてくださったら嬉しいなと思っています。 それは、いつも。生徒さんにもクライアントにも、いつも思っているのと同じように。
それぞれの人生や生活は全然違うもので、お話を聞いていると「へぇ〜」と勉強になることばかり。ご本人は毎日を生きている人ですから「フツー」のことしか言ってないし、していないのですが、 私からすれば「すごいなぁ、偉いなぁ」ということが「てんこ盛り」。
皆さんが当たり前にしている、こなしている日々やお仕事、家事や子育て、闘病や生活は、別の人生を生きているさやかからすればたくさんの「素晴らしい」に溢れています。たとえ ご自分が決してそうは思っていなくても。思えなくとも。
だからこそ。「生きてるだけで偉いよ、私。」とご自分を褒めてあげてくださったら嬉しいなと思っています。
なんとなく日々をだらだらと生きている、としか思えない時であろうと。
「生きてる」それだけで、100点満点です(^−^)優等生☆☆☆
それ以上のことを「無理して」「無理やり」「焦らせて」ご自分に望ませてあげなくて、大丈夫。圧力、かけてあげないでほしいなと思います。
日々を生きていることでもう立派。だから、100点満点とっているのに「全国1位にならなきゃ」「世界一にならないと」と思うかのごとく、無理やりに夢や希望をご自分に持たせようと「やっき」にならなくてOKです。 焦らせなくて、いいです。
(^−^)
だらだらしている時は、だらだらする必要がある時☆
ぼーっと毎日をただなんとなくすること、こなすこと、やる必要があることだけの繰り返しで生きている時は、それをする必要があっての人生の時期。
それはとても立派で素晴らしいことだから、それを褒めてあげてほしいなと思います。おしりペンペンするのではなく、ね(^−^)

うつ病3回目の時… 大好きな本も、文字がページの中でぐるぐる蚊取り線香のように渦巻いて動いているように見えて、「文字、待って」と思っても読めない状態で、とても疲れて読めなくなりました。 「私には楽しみさえもない」となげきました。
けれどある日、思い出しました。まだ元気でした時にたまたまTVで精神科医の先生が「何か1つできたことがあるなら、花丸だよ」と指導しているということを。
それを思い出した時に「今日こそは冷凍している食材を使って、ご飯が作りたい。せめてご飯だけは炊いてあげたい。」と思って、ほふく前進で夫が帰宅する4時間前に晩ごはんの準備をするためキッチンへ向かいました。
4時間あれば、キッチンへたどりつくことができるかも、と。
結果、いつも4時間で「歩いて1歩分」しか進めませんでした。床にびちゃびちゃと泣いてこぼれる「水たまり」になった涙で自分の顔が汚くぬれることしか感じられなかった日々が「今日は1歩進めた」と思うようにとてもとても力と勇気を持って思うようにしました。
そうして10日過ぎた辺りで2歩に、3ヶ月過ぎた辺りで3歩に、と前進している自分の状況を感じて、嬉しくて、「やった」と顔はまだ無表情なままでしたが罵倒する心の言葉の他に増えていきました。
長い月日をかけてキッチンへ「さだこ」はたどり着いた時、とてもとても嬉しくて。
「夫にご飯を作る」という目標は何ヶ月経っても達成されてはいませんでしたが、もうそこではなく「キッチンへ行けた」という嬉しさのほうに心は向くようになっていました。
それからだったと思います。回復まで早かったのは。自信になりました。
「たった数歩で行けるキッチン」に何時間もかけてほふく前進でしか行けない私でも、行けなかった時の私とは全然違う。
それが嬉しくて「私にもできる」という自信が「立つことができる」を後押ししてくれ、それが「立って歩ける」の後押しをし、「お買い物に行ける」へとつながり、「夫にご飯を作れる」という私の夢と希望の実現へと導いてくれました。
その当時の我が家の1日の食費は500円でしたので、500円以内で済むように計算をしながらお買い物をすることは頭のいること。
500円しかかけられない家庭の経済状況でしたが、うつ病になる前よりもずっと、楽しみながら計算できる自分がいました。

「当たり前のことができるって、幸せ。」
自分を罵倒したり、卑下したり、責めたりする「暇人」はいつの間にか卒業していました。いたのは「おぅ、これを買うと3円オーバー!」とゲームのような感覚で節約を楽しむ私の姿でした☆

「できないこと」を見過ぎて、私は3回も「動けない」人間になりました。
できないことよりも「できたこと、できていること」を見るようになったら、どんなに苦しいと言える状況でもゲームかのように「よし♪ もう一回献立考えるのリセット♪」とスーパーで1人で笑っている、あやしいさやかになることができました(笑)
(^−^)
自分が苦労したこと、悲しんだことを「他の人」も悲しんだり苦労しないといいなぁ〜と思います。
けれど、苦しんだり悲しんだことから学んだこと、気づいたこと、有難く得たことはたくさんだったとも思います。
それをお仕事で還元していきたくて、していってはいるのですが、皆さんが講座にいらっしゃらない時も「生きてるだけで、もう、偉い♪」「でもさ、毎日生きてるやん☆偉いんやで、私♪」と応援してくださったなら嬉しいなと思います。
お会いした日、いつでもさやかが応援しているように、お会いできない日も皆さんがご自身で、まるでさやかになりきったかのように応援してくださったら、褒めてくださったなら有難いな。と。

5.15
あと15日ですべての「お申込み」が終了になります。
よろしくお願いいたします。

5.12
人のことを悪く言う時は「自分を守っている時」。
きっと、言っている本人が何か罪悪感があったり後悔してます。だから本当は責めてない。悪口を言っているその人を、責めてない。
責めているのは、自分。
きっと「今の自分ならもっとこうしたのに、できたのに」があるのだと思います。
人は基本、とても優しい。
ですから、悪口を言って「自分の罪」と、その人とをなんとか「同じ高さ、距離」にしたいのだと思います。
そうでないと、その人に申し訳なくて。
本当はとっても大好き。その、悪口の対象となっている人、不満に思っている人のことを。
もっと距離が近かったらいいのにね。笑いあえたらいいのにね。
それが「悪口」でしか表現できないだけ。愛を表現する方法をあまりにも知らなさすぎて。
ですからもしご自分が悪口を言われていたとしたら…
「うらやましい」が根底にはひそんでいるのだということを理解してあげてくださればと思います。
うらやましがられるような人間ではないとご自分が思っていたとしても、他者から見ると素晴らしいのかもしれない。あるいは、 何かとても抜きん出た美貌ですとか性格のよさとかですとか、そういったものがない「ごくごく普通の人」ですのに、ありのまま・自分のままで自由に生きているように見えて、 「特別な人間」「別格な人間」ではないのに、自分と同じような人であるにも関わらず、幸せに生きているように見えて「いいな…」と思われているだけに過ぎないのかもしれません。
シエルセラピーで1番多い相談内容は「人間関係」です。
誰々さんから嫌われている、愛されていない、どこへ行っても一人。
もしかしたらそれは、自分だけが気づいてないからかもしれません。あなたが、あなたらしく素直に生きている素晴らしさに。
それを、周りの人のほうが気づいていて「いいな…」と思われているだけなのかもしれないということに。

「いいな…。私(僕、俺)もあなたみたいに自分らしく生きたい。」
それが、悪口や、愛されていないことの「本当の意味」であることは多いです。

自信を持って。
あなたはいつも、愛されている。

5.11
人生がどうにもならない毎日、大変な毎日でした日々の頃は「楽しい」に興味がありませんでした。
「楽しい」や「好き」をしても、人生の中にあるネガティブなもの(部分)はどうにもならない。とも考えていましたし、 そういうことをする暇もない。とも考えていました。また、あまり「楽しい」も「好き」も感じることや瞬間、ものは存在しませんでしたし、 「楽しい」や「好き」でハジケている人たちが「不真面目」のようにも目に映っていました。そして「おめでたい人たち」とも思っていましたし、 「あぁはなりたくない人たち」とも感じていました。

自分のことを「幸せではない」と感じている人に共通していることは「楽しい」をあまり知らない。ということ。
これは10年以上クライアントと生徒に接して来た統計結果です。不安や不満がある人ほど「楽しい」が人生にほとんどない。
これといった趣味がない、好きなものが少ない。
人生の中に「楽しい」がほとんどないため、人生の中の「嫌なもの」に否応がなく目が行く。気になる。集中してしまう。考え込んでしまう。
ですから「楽しみ」「楽しい」「好き」「趣味」を増やしてあげればいいのですが、それがなかなかうまくいかない。 楽しいと感じるものが見当たらないし、出会わない。それで引き続き「嫌なこと」について考え「嫌な人」について腹を立て、「嫌なもの」に怖がる。
それはなぜか。
それは自分自身もそうだったからですが、「とてつもなく重い荷物を抱えて生活している」から。
その荷物とは、「トラウマ」のことです。
トラウマと聞くと「私はそのような、ひどいものは持っていないし、抱えてもいないし、人生なんとなく過ごしてきたから思い当たらない」と簡単に誤解しがちですが、 トラウマがないなら「楽しい」がたくさんある充実した笑顔の人生を毎日過ごせています。
ですからそうではない場合、自覚できていない「トラウマ」という名の、乗り越えていない「心の傷」をたくさん持っている。という証拠です。無自覚の。
とてつもなくたくさんの荷物をリュックにつめて、それは1トンくらいあるとします。それを背中に背負ったら…
どうなると思いますか?
もし ご自分がそんな1トンもの重さのリュックを毎日背負って生活しているとしたら…?
「楽しい」を感じる余裕さえないと思いませんか?
それどころか「つらい」「苦しい」しかないとは思いませんか?「もう嫌だ」と。
それが「幸せではない人生の真の姿」です。
私たちは無自覚に重い荷物を毎日背負って生きているから、楽しみも感じられなくなっているし、楽しいこともないし、とにかくつらい。それだけで生きています。
それを、天使や神と相談しながら、お話しながら、1つ1つ荷物を降ろしていく…
そうすると、「重たい」と感じなくなる個数になった時点で「楽しい」が感じられる自分、「好き」が見つかる自分になれます。なぜなら余裕がやっとできてきたから。
背中のリュックが重たい日々では、親切にしてくださる人の愛もありがとうと思える余裕はありません。気づけません。それどころじゃないから。
本当はとてもとても愛されて生きていることにも気付けません。なぜならつらいから。重いから。
重たいリュックを背負って生きている間は、「うらやましい」「ねたましい」「私には無理」「信じられない」が多い生きかたでしょう。ですがリュックが軽くなると、自然と 前向きに、ポジティブに物事をとらえることができるようになり、「あれが欲しい、でもお金がない」などではなく「あれが欲しい、じゃあそれを楽しみにして貯金しよう♪」と、 同じものがほしい場合であれ、まったく違った考えかたでまた1つ「楽しい」を自ら増やしていきます。ごく自然と。
そうやって次々と人生に「楽しい」「好き」を生み出していく。見つけ出していく。
今となっては「お仕事が終わってから、ビールを仲間と一緒に飲んで騒ぐパーリーピーポー(Party people)」は楽しくストレス発散をする方法を知っている人たちなんだな、 それで翌日もまた頑張ろう〜と活力が湧くのだな。と、理解できるようになりました。
ずっと「それをして一体何になるのだろう」と理解不能だったことです。ただの酔っ払い、ですとか人生や自分を直視することから逃げている人たちという認識でしたが (もちろんそういう人たちのほうが多い。ということも理解しています)。
私自身は飲めや騒げやには興味がありません。おいしいプロテインと豆乳をわんさか紹介してもらえるパーリーなのでしたら、るんるんで伺うこと間違いなしなのですが。
人にはそれぞれ、ストレス発散といいますか、「楽しい」が星の数ほどあると理解することができるようになりました。本当の意味で。以前はそういう人たちはいる、と理解できても それをすることの意義、意味は見いだせないとしか思えませんでした。
リュックの中身が減ると、自分だけでなく他者に対しても理解度が増すのだともわかりました。「嫌いな人」や「苦手な人」を作っているのは自らなんだとも。 神と天使のお陰だなぁと感謝しています。



O L D




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